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私の学生時代と大学生活 (特任教授 柯 隆)


9月15日 特任教授 柯 隆

 
 過去2000年の歴史のなかで日本は中国と付き合ってきたが、多くの日本人にとって中国は依然不可解な国のようである。ここで自分の過去を振り返って、中国で何が起きたかを一側面から考察してみたい。

 私は大学を卒業するまで、中国で生活した。小学校に進学した初日に学校から教科書を配られ、「毛沢東主席の話を聞かなければならない」と先生から教わった。授業そのものは何も面白くなかった。好きだった科目は体育だったが、当時、体育といわなくて、「軍訓」、すなわち、軍事訓練の授業だった。円盤投げの代わりに、模型の手榴弾を投げさせられた。毛沢東時代、ソ連からの侵略に備えなければならなかった。小学校1年生のとき、やせていた自分は、手榴弾の模型を渡され、投げろといわれ、どのように投げるかわからなかった。力を汲み上げて必死に手りゅう弾を投げたが、気が付いたら、先生とクラスメートの方向へ飛んでいった。幸い誰にも当たらなかった。

 小学校高学年から英語の勉強を始めた。最初に習った英語の文章はLong live Chairman Mao(毛主席万歳)だった。何の役にも立たない英語だった。

 1976年、毛沢東は万歳どころか、84歳で死去した。この年はすべての中国人にとって人生の大転換点だった。その2年後に、10年間も廃止されていた大学入試が再開されたのである。文科と理科に分かれて、理科は国語、英語、政治、物理、数学と化学を受験しなければならないのに対して、文科は国語、英語、政治、歴史、地理と数学を受験しなければならない。当時の進学率(入試合格率)は5%未満だった。

 若者にとって受験は自分で自分の人生を決める好機だったが、苦難な試練でもある。文科を受験する自分にとって政治と歴史は苦痛だった。なぜならば、出題された問題のほとんどはイデオロギーに関する問題である。たとえば、歴史の出題に「毛沢東が率いる「紅軍」(赤軍)は蒋介石の軍隊の包囲を突破するため、長征という逃避行を始めた。長征の意義を書きなさい」との課題があった。自分はその意義を感じないため、暗記するのを拒否していた。結局、歴史は不合格だった。ちなみに中国で受けた歴史の教育は歴史の史実が少なく、ほとんどは宣伝のためのプロパガンダだった。

 毛沢東時代(1949-76年)を歴史学者がどう総括しているかは定かではないが、個人的な経験を踏まえれば、暗黒な時代といわざるを得ない。なぜ暗黒な時代というかというと、伝統文化が壊され、知識人が迫害され、もっともいろいろな本を読みたいとき、人類の文明の結晶の本を読ませてくれなかった。学校から配られた教科書を開くと、まずは毛沢東語録が載っていた。無味乾燥の説教だった。

 もしどのような生活を送りたいかと聞かれたら、イデオロギーのない生活を送りたいと答える。イデオロギーは政治の道具でしかない。グラスルーツの自分は政治に一度も興味を持つことがなかった。イデオロギーについて無関心であるどころか、強い反感を持っている。学校教育のなかで、毛沢東を愛する、共産党を愛すると繰り返して教えられた。しかし、自分は直接知らない個人と組織を愛することができない。なぜならば、自分と無関係だからである。自分の夢はただ一つ、普通な人間らしい生活を送りたいだけである。

 ニューヨークメトロポリタン歌劇場で30年以上、ミュージカルを歌った中国人アーティストは自らの回顧録で1980年代初期、中国を離れ、渡米してデンバーのコロラド歌劇場に入り、経験を積んだあと、ニューヨークメトロポリタン歌劇場に入った歩みを振り返ったとき、歌劇場の責任者に一度も賄賂を贈ったことがない。海外では、これは当たり前のことだが、中国国内では、賄賂を贈らなければ、出世はできない。

 中国国内では、賄賂を贈るのは一種の「文化」になっている。これは中国語で「潜規則」というもので、すなわち、目にみえないinvisibleなルールという意味である。

 これまでの数十年を振り返れば、中国社会は暗黒な時代に終止符を打ち、少しずつ開かれた社会になるように歩みだしたが、スピードはあまりにも速くて、多くの人はそれについていけていない。同時に、制度の近代化が遅れ、社会は混乱しているようにみえる。