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HOME >  中国展望 (特任教授 柯隆) >  2020年 >  第30回 コロナ禍の大学教育のあり方(12月15日)

第30回 コロナ禍の大学教育のあり方(12月15日)


新型コロナウイルスはマスクの着用や手の消毒などさまざまな対策にもかかわらず、その感染拡大の勢いが一向に衰えない。コロナ禍はこれまでの感染症と比較してその規模が想像以上に大きく、人々の生活を完全に変えてしまっている。

そもそもウイルスは自らが動くことのできないものである。新型コロナウイルスの感染を手助けしているのは人間の活発な活動である。しかも、交通輸送が便利になっている今日において、人々の経済活動はグローバル化されている。このことは新型コロナウイルスの感染が全世界に広がった背景の一つである。

新型コロナウイルスの感染は最初に確認されたのは中国の武漢市だった。そこから推察するには、新型コロナウイルス感染の発生源は中国であるとみることができる。むろん、中国はそれを認めていない。ただし、中国は世界主要国のなかでいち早く新型コロナウイルスの感染抑制に成功している。

上で述べたように、ウイルス自身は動くことができない。その感染を抑制するというのは人々の行動を抑制しなければならないということである。民主主義の国では、人々の自由と基本的人権が憲法によって保障されており、それを奪うことができない。百歩を譲って、感染症対策として人々の自由を制限するとしても、関連の法律を制定し議会で承認されなければならない。それに対して、専制政治では、人々の自由を制限することは議会の承認を得る必要がなく、権力者の決断でできる。

むろん、中国だけで新型コロナウイルスの感染を抑制しても、問題の解決にはならない。中国は外国人の入国を自由化することができない。同時に、中国人の海外旅行も再開できない。結局のところ、世界の人々の経済活動は正常化する見込みが立たない。重要なのは特効薬とワクチンの開発である。

こうしたなかで、日々のマスコミの報道は新規感染者の増加や企業倒産と失業問題に焦点を当てているが、忘れられがちなのは学校教育のあり方である。最近、ある精密機械の会社を見学したときのことだが、その社訓として「モノづくり以前に人づくり」と書かれていた。この言葉は頭のなかに焼き付けられ、なかなか忘れられない。

学校教育は小学校から大学までシステム化されている。小学校は名前の通り、基礎を学ぶところである。日本語の大学の語源は中国の四書の一つ「大学」という説がある。文字通りで理解すれば、総合的に学ぶということになる。英語のuniversityのもともとの意味は「一つの目的に向き合う共同体」であるといわれている。

目下、ほぼすべての大学はウイルスの感染を回避するために、対面授業に変わってオンライン授業にしていることが多い。オンライン授業はウイルスの感染を回避できるかもしれないが、あるべきコミュニケーションができないため、教育の質の低下が心配されている。とくに、大人数の授業について、オンラインで行った場合、内容の習得率は大きく低下する可能性が高い。

新型ウイルスの感染が急増するなかで、無理に対面授業にすることができないし、その必要性もない。しかし、オンライン授業という新しい形態を続けるならば、大人数授業を取りやめ、少人数授業に切り替えるべきではなかろうか。コロナ禍の人々の行動パターンが大きく変化しているため、人々の行動を規定する制度と仕組みもそれに応じて変化させる必要があるように思われる。