グローバルナビゲーションへ

本文へ

フッターへ



サイトマップ

検索

HOME >  研究員リレーコラム >  危機管理部門/自然災害研究部門 >  目標のパラドックス(特任教授 酒井敏)

目標のパラドックス(特任教授 酒井敏)


静岡県立大学グローバル地域センター
特任教授 酒井敏

 「目標を設定すると、目標が実現できない。最高の目標を達成するには、それを捨てる覚悟が必要だ」これは、欲を捨てる仏教の教えのようにも聞こえるかもしれないが、そのような古典的な教えではない。最新のAIを研究するケネス・スタンリーとジョエル・リーマンの言葉(1)である。現在のAIは基本的に既存の知識の中から最適解を見つけることに関しては、知識量およびスピードにおいて、生身の人間をはるかに凌駕しているが、未知の領域から新たな発見をすることはできない。AIが人間を超えるためには、未知の領域に踏み出し世界を広げることが必要で、そのために必要な能力を研究しているのである。

 現代の人類は、これまでに蓄積した膨大な知識の上に、高度な文明を築き上げているので、一人の人間の知識量は、人類全体の知識量に比べてごくわずかである。したがって、一人の個人が新たな探索をするとしても、まずは手っ取り早く既存の知識体系の中を探索する。そのため多くの人は誰も知らない新たな領域に踏み出す経験はあまりないかもしれない。しかし、人類とAIが共存する世界を考えた時、この能力こそ人間に求められる能力のはずである。

 そのような新たな領域に踏み出す能力を考えるために、知識体系の乏しい古代の人類の立場で考えてみよう。例えば、縄文人はドングリを主要な食材の一つとし、一万年以上にわたって、大きな争いもせずに平和に暮らしていたといわれている。ドングリはクマやリスなどの動物にとっても重要な食材であるが、人間には渋くて、そのままでは食べられない。では、縄文人はどうしたのだろうか?まず、彼らは火を使う技術を手に入れる。火の使用は縄文時代以前の発明であるが、人類にとってとても大きなイノベーションである。肉や魚、根菜類を焼くことで、効率よく栄養を摂取できるようになり、大きなエネルギーを必要とする脳を発達させた。縄文人はその火を使っているうちに、粘土を焼くと固くなり水に溶けなくなることを発見し土器を作る。日本の縄文土器は世界最古級の発明品である。現代の我々はマグカップのような器を当たり前に使っているが、縄文人にとって、水が運べるようになったことは、大きな衝撃だったに違いない。さらに、土器は火にかけることができるので、水を熱して湯を沸かすことができるようになる。そして、その中に食材を入れて、煮炊きをするという新しい調理法を生み出すのだ。ここまでくると、ドングリを煮てあく抜きをするという技術を発見するのに、さしたる困難は伴わないかもしれない。しかし、最初の「火を使う」や「土器を作る」という段階で、「ドングリを食べる」という終着点は全く見えない。つまり、最初から「ドングリを食べる」という目標をめざすと、このルートは見つからないのである。このようなパラドックスをスタンリーたちは「目標のパラドックス」とよび、「火を使う」とか「土器を作る」というような、「ドングリを食べる」という目標とは一見関係ない中継地点を「足がかり」と表現している。

 現代の我々は煮ることであくが抜けることを知っているので、そこから逆算して火を起こすという入口を見つけることができるが、人類は火を起こす技術すら最初は持っていない。ましてや、それが「ドングリを食べる」ことに繋がることなど、想像しようがない。そもそも、未知の領域で「目標を決めて、そこから逆算する」ということ自体が不可能なのである。そのような状態で、目標を決めてしまうと、それとは関係がない「足がかり」を探索する行為に意味はなくなってしまう。つまり、目標を決めるということ自体が、そこに至るルートを閉ざしてしまうというパラドックスに陥ってしまうのだ。火を使うことを知らずに、強引にドングリを食べようとすれば、ひたすら渋さに耐える訓練を重ねるというディストピアが待っている。

 しかし、人類は様々な「足がかり」をみつけ、数多くのイノベーションを起こしてきた。では、目標を捨てて、そのような「足がかり」を探索する原動力は何なのだろうか?スタンリーらは「好奇心」と「面白さ」であるという。この好奇心や面白さを感じる感性は、おそらく動物の本能である。そして、このような探索行動の重要な点は、オープンエンドネス、すなわち終わりがないこと、さらに、探索行動そのものが面白いということである。目標そのものがオープンなので、一つの「足がかり」を見つけた後も、その先、いくつにも分岐していろいろな「足がかり」に繋がる。そして、面白いので探索は延々と続き、最終的には巨大な「足がかり」のネットワークが構築される。おそらく縄文人はこのような過程で、ドングリを食べる技術を手に入れたのだ。しかも、その過程は面白く、ドングリの渋さに耐えるような苦行はおそらくしていない。

 そもそも、「目標を立てる」とはどういうことなのだろうか?本能に従って、楽しく探索行動をすることを抑え、辛さに耐えてより大きな成果を得るための一つの方法なのではないだろうか?もちろん、そのような能力を身に付けたからこそ、人類は高度な文明を発達させることができたことは間違いない。しかし、その目標を立てる前に、本能的に集めた「足がかり」が多数散らばっていないと「渋さに耐える」ような、ただひたすら苦しい思いをしなければならなくなる。AIが急速に進化し続けている現在、AIが得意なところで勝負をするよりも、今のところAIにはできないが、現代人が忘れかけている「本能に身を任せる」ことこそ、人間が注力すべきことではないかと思う。いずれ、そのような能力までAIに実装される時が来るかもしれないが、そのためには現在のAIとは根本的に異なる仕組みが必要であると思われる。少なくとも、当面の間は、本能的能力がAIに対して人間のアイデンティティーの証となるはずである。

参考文献
1)「目標という幻想 未知なる成果をもたらす、オープンエンドなアプローチ」
ケネス・スタンリー,ジョエル・リーマン著; 岡 瑞起 監修. 株式会社ビー・エヌ・エヌ,2025。