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学問的知識は防災に貢献する(特任准教授 鴨川仁)


9月13日 特任准教授 鴨川仁
あの東日本大震災(311)の前、私は毎年2月25日に行われる前期の国公立大学入学試験を終えた直後、キルギス共和国の首都ビシュケクへ向かった。そこには、ロシア科学アカデミーの研究所があり、ソビエト連邦の冷戦時代から科学研究が行われている。核戦争が行われた場合には、電離圏での電波反射を用いた通信ができなくなるため、この研究所では地下通信の可能性を模索していた。その実験では大電流を地中に流すことを行なっていたが、電流注入後約2日で近隣の地震活動度の上昇が見出された。地震が大地震による地震動伝搬や地球潮汐、人工的なダム・ビル建設などで誘発されることは、現代では良く知られた科学成果であり、いずれの起因も、誘発される地震の場所で応力の変化が及ぼされるためである。しかし、地殻内大電流注入による地震は、前述の応力変化による地震動とは異なる仕組みで発生すると考えられ、電流注入が人為的に制御しやすい、地震制御ともいえるこの現象は私の興味を引いた。その足で、ギリシャのアテネ大学に訪問し、物理学者のバロッチョス教授らと研究討議を行った。彼らの研究は、地震は臨界現象であるという物理学的視点から大地震の発生予測を試みており、我々の研究テーマとも大いに重なるところがある。3月9日に東北でM7クラスの大地震が発生したことから、この地震をモデルとして滞在中討議したことを調べることになった。ただ帰国日の前日であったので、電子メールで以後議論することになった。

3月10日にギリシャを出国し、アエロフロート航空のモスクワ経由で国公立大学後期試験前日となる3月11日正午に成田空港へ到着した。従来ならばバスか京成電鉄の特急でのんびり都内へ向かうことが多いが、この日は共同研究者をお伴する必要があったので、成田エキスプレスでやや急ぎ足で都内に戻った。自宅に戻り、滞在中無性に食したいと思っていた日本的中華料理を楽しむために、近所の名店へさっそく向かった。注文し、食事が提供されたところで、地面の縦揺れが微妙にあることに気づいた。店の前の大通りにトラック通った形跡がないので、この継続的な縦揺れに首を傾げていた。その直後、わずかな横揺れが発生し、長時間のおかしな縦揺れを感じた。直ちに遠方の巨大地震であると判断できた。その時はおそらく南海トラフの巨大地震だろうと。店内の他のお客さんらに外に出ましょうと声をかけ外に出た。初期の横揺れがこれだけの大きさであるからして、その後のレイリー波が到達したときにはさらに大きな揺れがくるだろうと想像された。案の定、大通りの電柱はゴムのように振動しており、生まれて一度も見たことがないが、映画ならばこのような風景が描かれるであろう奇妙な光景を目にすることになった。携帯電話の音声通話回線は繋がらくなったが、インターネット用のパケット通信は使用でき、地震の発生場所が確認できた。

発生した場所は学問的には超巨大地震が発生しないとも言われていた東北地方であった。揺れが収まり、店にも支払いを済ませ自宅に戻った。これだけの地震動であったが、作り付けの家具や物の配置など、普段より地震防災対策に配慮していたのが良かったのか幸い無傷であった。

311の直前までも、地震予知を目指すべく日々研究を積み重ねてはいたつもりだが、全くの無力に愕然とした。しかし1点だけ気づいたことがある。避難までの判断は経験ではなく学問的知識で行われており、知識が避難に繋がっていたのだ。この学問的知識の礎となる高校での物理履修率は、かつては9割を超えていたものが現在は2割を切ったという報告もある。ましてや地学においては開講されない高校も多数あり、かつ県では教員も募集されない状況だ。この状況下でのグローバル地域センターの役割は、生徒、学生、一般市民へ向けた自然科学の学問的知識を提供することであろう。
 
地震、津波の被害のみならず原発事故ももたらした東日本大震災から8年半が経った。完全なる復興まではまだまだであるが、徐々に人々の生活は戻りつつある。その反面、時が経つにつれてあの悲惨な自然・人的災害から数多くの学ぶ機会を失いつつある。近現代地球科学計測が整った環境での最大クラスの地震であった東北地方太平洋沖地震から、人類は可能な限り多くの知見を得て、将来の減災に繋げなければならない。