グローバルナビゲーションへ

本文へ

フッターへ



サイトマップ

検索

HOME >  研究員リレーコラム >  アジア・太平洋部門 >  2015年 >  転換点の判断(センター長、特任教授 竹内宏)

転換点の判断(センター長、特任教授 竹内宏)




5月26日  センター長、特任教授 竹内宏
  戦後70年を経過し、戦後史の議論が活発になった。私が経済調査を始めた昭和30年代では、最も華やかに活躍したエコノミストは、後藤誉之助・下村治の両氏だった。
 ヒット標語を作る名人だった後藤は、昭和31年度の経済白書で、「もはや戦後ではない」という副題を、大宅壮一の論文から拝借して、ベストセラー作品に仕上げた。白書がベストセラーになるのは空前絶後のことである。その頃のサラリーマンは、時代遅れにならないように争うように読んだ。
 この副題は二つの意味を持っていた。その一つは、消費水準や鉱工業生産指数等が戦前(昭和12年)レベルに戻り、大都市では背広・革靴の紳士が増え、戦後の貧困期を脱したことが強く感ぜられた。
 2つ目は、テレビ、トランジスタのポータブルラジオ、ポリエステル等の石油化学製品が登場したことであり、シュンペーターのいう社会の根底を揺り動かす革新技術が登場し、新時代の展望が開けたことだ。「技術革新」という言葉は後藤の造語だと云われている。
 日本経済は、革新技術を備えた設備への膨大な投資に支えられて、実質経済成長率が10%を超え、後藤は仁徳天皇の御代の繁栄を思い出して、「神武景気」と名付けた。
 昭和32年には、高スピードの設備投資の反動として、膨大な在庫が発生した。後藤は、天才の例に漏れず、神経質だった。当時、世界経済が不況に向いつつあり、日本経済は、過大な設備投資が生み出した膨大な在庫の調整を迫られていた。後藤は、日本経済が世界同時不況に巻き込まれることを恐れた。彼は、昭和33年度の白書では、緊縮財政・金融引き締め政策を提案した。景気循環論の研究によって後に文化勲章を受賞した篠原三代平も、後藤と同じく景気抑制政策を主張した。
 この提案に対して、下村博士は猛烈に反対した。博士によると、日本経済は成長期にあり、在庫の増加は一時的なボトルネックのような現象に過ぎず、経済成長すれば直ぐに解消するはずだ。景気刺激政策を続けるべきという。在庫論争は、経済分析の神様・下村博士の完勝だった。
 後藤は、景気判断の間違いを酷く気にしていた。経済企画庁は、気分一新を期待して、彼をワシントンの日本大使館付き初代景気観測官に任命した。しかし、大使館は外務省の所管であって、後藤の自由な行動や発言は制限された上、そもそもアメリカには、東洋の小国である日本経済に、関心を持つエコノミストもいなかった。後藤は1年間で帰国し、その1ヶ月後に、睡眠薬の過量服用によって亡くなった。43才の若さだった。
 後藤は、珍しい経歴の持ち主だ。まず関脇・緑国の息子であって一高出身である。一高は、最難関の旧制高校であり、私の出身校清水中学(現清水東校)では一人の合格者もでなかった。余談ではあるが、小結・緑嶌の息子・高木友之助が後藤の4年後に一高に入学し、東大で中国哲学を専攻し、後に中央大学学長を務めた。
 さらに後藤は、法学部や経済学部ではなく、東大工学部電気工学科出身であり、上司の大来佐武郎の後輩である。旧制高校の理科で最も優秀な学生は、東大の物理科か、電気工学科に進学した。電気工学を学んだ人にとっては、経済循環を電気回路として捉えると、マクロ経済を容易に理解できるという。過剰投資や過少消費という問題が発生した時には、電気回路上に発生したトラブルが解消するプロセスを研究し、応用すれば最適な政策が生まれるという。
 日本の高度経済成長のメカニズムを計量モデル使って見事に証明した堀比呂志(関西電力・経済企画庁出向)によると、電気工学を専攻した者にとって経済学を学ぶのは階段を降りるように楽だと公言していた。大来・後藤以来、経済企画庁では、工学部・理学部出身者が活躍した。その後、間もなく、経済学の関心は、経済要素の均衡条件を研究するようになり、数学出身者が幅をきかせた。
 後藤は稀代の悪筆であるから、白書の仕上げの時には、経済企画庁の渋谷寮に2週間泊まり込み口述筆記を続けた。口述の方が判りやすい文章になるという理由もあったという。
 世界経済は長期低迷に落ち込み、中国経済では、重化学工業分野で過剰在庫に苦しみ、金融界には、膨大な不良債権が積み上がっているから、下村・後藤論争のような議論が拡がっているだろう。しかし、後藤白書のような分かりやすい政府出版物は存在しないといわれている。