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明治初年の東京都と茶(特任助教 粟倉大輔)


5月16日 特任助教 粟倉大輔
2020(令和2)年のオリンピック・パラリンピックの東京開催がもう来年に迫っている。その東京については、近世にはいわゆる「百万都市」江戸として世界的にも有数の大都市であったこと、また現在においても首都として日本の政治・経済の中心地であることは論をまたない。その一方で、幕末から明治の初めにかけての東京(江戸)を取り巻く経済的環境は厳しく、その打開策として茶の生産が奨励されていたこともあった。

幕末に行われた文久の改革(1862年)で参勤交代制度が緩和化され、それまで江戸の経済を実質的に支えていた武士人口が減少する。それにより武士たちの消費需要に応じていた商人・職人たちもマイナスの影響を受けた。さらに、江戸幕府の滅亡により諸大名が江戸に滞在する義務もなくなったほか、旗本や御家人といった幕臣たちも、その半数が徳川家の静岡移封にともない同地に移住することになり、東京の人口はさらに減少した。

こうしたさらなる人口減少、とりわけ武士という消費人口の激減により商人・職人たちが被った経済的な打撃の深刻化、また経済状況の混乱にともなう「窮民」の増加など、当時の東京府(現在の東京都、68年7月設置)は深刻な問題を抱えていた。さらには、主がいなくなった大名・幕臣の屋敷も管理が行き届かず軒並み荒れ果てていく。この屋敷の処理も東京府が解決しなければならない問題であった。

そのような中で、上記の問題への対応策の一つとして考え出されたのが、幕末の「開港」以来日本の主要輸出品であった生糸と茶の生産奨励であった。この「桑茶政策」は、佐賀藩出身でこの時期に東京府知事に就任した大木喬任(1832~99)の主導のもと、1869(明治2)年8月から開始された。その結果、大名屋敷の跡地をはじめ東京の各所で桑や茶が植えられることになった。しかしながら、それらの栽培は思うようにいかず、また大木が東京府を去った後は、インフラの強化など首都機能の整備に府政の重点が置かれる。結局、桑茶政策は軌道に乗ることなく1874~75(明治7~8)年頃には中止されたようだが、こうした茶畑ならびに桑畑が府内のあちこちで見られた時期もあったように、現在の東京の形成過程も決して順風満帆なものではなかったのである。

ところで、茶業史関連の文献には、この明治初めの東京府の茶生産(桑茶政策)についての記述が全くない(茶業史を研究している私もこの政策の存在を最近になり知った)。すなわち、茶業史という視点から、桑茶政策を分析した研究はまだなされていないといってよい。同じ分析対象でも、視点を変えることでその対象の全く違った一面を明らかにすることもできる。桑茶政策を実際に分析することで、現在の茶業界に生かせる知見が導き出されるかもしれない。今後の研究課題として、少しずつではあるがこの政策の分析を進めていきたい。

参考文献
東京都『明治初年の武家地処理問題 都市紀要13』東京都、1965年。
東京百年史編集委員会編『東京百年史』第2巻、東京都、1972年。
安藤優一郎『大奥の女たちの明治維新』(朝日新書)、朝日新聞出版、2017年。
横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書)、岩波書店、2018年。