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女性がつくる中越国境地帯の「市場」(国際関係学部講師 奈倉京子)




3月6日 国際関係学部講師 奈倉京子
中越国境貿易
1991年に中越関係が正常化し、両国の経済交流が盛んになっている。その中で、中越国境貿易に注目をしてみたい。ベトナムと中国(雲南省、広西チワン族自治区)との間には、約2000㎞の陸上国境を有する。主に3つの国境貿易のルートで―①トンキン湾(中国名は北部湾)に面した東興市とクアンニン省モンカイ市、②友誼関を挟んだ凴祥市とランソン省ドンダン、③雲南省河口市とラオカイ省ラオカイ市―がある。そこでは、中国からベトナムへ大量の消費財が流れ、ベトナムから中国へは農産品などの一次産品が流れている[池部2008:164]。

2004年に入ると、両国のあいだに経済協力を拡大しようとの機運が高まった。同年5月、ファン・ヴァン・カイ首相が訪中し温家宝中国首相と会談した際、ベトナム側は中国に「二回廊一経済圏」(中国では「両廊一圏」)の開発構想を提案し、中国側はこの提案に合意し、同年10月に覚書に調印した[細川2014:129](文末地図を参照)。「二回廊」(「両廊」)とは、両国をつなぐ南寧-ランソン-ハノイ-ハイフォン-クアンニンと、昆明-ラオカイ-ハノイ-ハイフォン-クアンニンの2本の経済回廊のことであり、「一経済圏」(「一圏」)とは、トンキン湾経済圏のことである[細川2014:131]。つまり、上述の3つの国境貿易のルートは、「二回廊一経済圏」にある。

2014年9月と2015年8月に、私は科研プロジェクト(注)でこの地域を訪れる機会に恵まれた。ベトナム側は、ハノイ、ランソン、ハイフォン、クアンニン、ラオカイを回り、中国側は、広西チワン族自治区の中心都市である南寧、トンキン湾経済圏に含まれる海に近い主要都市の防城、欽州、そして中越国境貿易点の凴祥と東興である。実は、私とこれらの地域との出会いは、近年の中越貿易への注目からではない。私はかつて、中国広東省に所在する華僑農場(海外で華僑排斥に遭い中国へ帰国した人々を定住させるために中国政府が建設した国営農場のこと)に1年半近くに渡り住み込み、帰国華僑(排斥や戦争の被害を深刻に受け、中国に帰国した華僑華人)の文化的適応に関する調査を行った経験がある。その中で、ベトナム帰国華僑の人々と出会った。その大部分は、1977年から78年にかけて中越紛争が原因でベトナム北部のモンカイやハイフォンなどの都市から戻ってきた人々であった。調査中、月に1回程度、ベトナムから行商人がやってきて、春巻きの皮、コーヒー等を売っていたことが印象に残っていた。現地の人から、広西チワン自治区の中越国境地帯から入って来た人々だと聞き、興味を抱いていた。

ベトナムにおける中国文化の影響
ベトナムは中国文化の影響を受けてきた。秦漢時代、中国は南部の辺境交趾地区に行った移民や官史が漢字を伝播させ、13世紀前まで、ベトナムで唯一の公用語は中国語であったと言われており、中国語はベトナム語の形成と発展に大きな影響を与えた。6、7世紀、中国の華夷秩序は中央を中心とし、その下に「地方」、「土司、土官」、「藩部」、「朝貢」、「互市」、「化外」を設け、統治した[浜下 1997:8-11]。939年、ゴ・クエン政権がベトナムで最初の独立王朝を建設したが、中国との藩属関係を維持しており、中国の制度を模倣し、漢字を通用文字とする以外にも、儒術、孔子像を崇め、科挙を行い、漢文化の発展を促進し、儒家思想をベトナムに根付かせた。またベトナムは中国歴を採用した。現在ベトナムは西暦を用いているが、民間の節気は中国の農歴に準じており、それは中国南方の風俗習慣と大同小異である[王介南1998:147-206]。さらに、ベトナム北方と中国南方の関係は密接であった。ベトナム北方の少数民族の飲食習俗、風俗習慣などは中国南方のそれらに近い。例えば、艾族は実際、漢族の一部と考えられ、中国広西の防城県五洞地区に起源がある。主にベトナム北部のクアンニン省のモンカイ、クアンハー、ティエンイエンに住み、加えてハーバック、カオバン、ランソン、バックタイ、ハートゥエンなどの省に約2万人居住している[利、徐 1989:209-212]。

こうした歴史的背景が、早くから中越間の人の移動を促してきた。科研のメンバーとともに、かつてベトナム帰国華僑の居住していた上記の都市を含むベトナム北方の複数の場所を訪れた時、生態環境や食文化は、華僑農場で経験したそれらに似ており、ベトナム帰国華僑が帰国後、生活環境の変化を感じずにスムーズに適応できた理由を肌で感じた。このようにベトナム北方には中国南方の生活文化が浸透している。家屋、レストラン、服の模様など、中国色が濃い場合であっても中国系移民のものとは限らない。表象文化だけでは中国系かそうでないかを見分けられないのである。この点は、中国系移民のエスニック・マーカーが顕著で他民族と容易に区別できる他の国の状況と異なっている。

中越国境地帯の女性をめぐる光景
調査の中で最も印象的だったのは、中越国境地帯のモンカイ、東興、凴祥における人やモノの移動がとても原始的に行われていること、そしてベトナム人女性の移動が中越国境ビジネスに担う役割がとても大きいことである。以下でいくつか事例を紹介したい。

モンカイのマーケットで東興出身の男性P氏(当時28歳。小学校卒業)に出会った。この付近では中国の携帯がそのまま使える。彼は18歳から中越間の商売に従事している。広東省仏山に工場を持っており、そこで衣類を生産している。広州の物流会社に製品の輸送を依頼し、税金の手続きも代行してもらっている。ここでは店舗を一部屋借りてジーンズを中心に販売しており、広州市内にも店舗を持っている。ここでの店舗のリース料は年3,000元(約45,000円)、税金が月1,000元(約15,000円)。ここ数年、ベトナム経済の発展や中国の物価の上昇のためにあまり景気がよくないが、月に3、4万元(約45万円~60万円)の儲けがある。彼は通行証でモンカイと仏山を行ったり来たりしているが、普段はベトナム人の妻にモンカイの店舗を任せ、仏山の工場にいることが多い。中国政府も越境ビジネスを支持しており、通行証は半年毎に無料で更新できる。同行してくださったハノイ大学の教授によると、この男性のように、ビジネスのためのベトナム人妻を娶る中国人男性が多くいるが、届けていないケースも多く、正式な統計データは明らかではないという。1か月の観光ビザで入国し、不法滞在の末にベトナム人妻を娶るケースも多くある。お金がたまるとマッサージ店などを始める人もいるが、公安に見つかり強制退去になると妻子を残して中国へ帰ってしまう人も少なくないという。

モンカイの通関門

モンカイの通関門。ベトナム人女性が物を運ぼうとしている。

翌年、中国側の2つの中越国境地点―凴祥浦寨、東興―で考察を行った時にも、女性の移動・移住に印象づけられた。凴祥浦寨で朝8時に通関の門が開くと、まずベトナム側(ランソン)から荷物をたくさん載せた天秤をかついだ人たちが駆け足でやってきた。そのほとんどが女性であることに驚かされた。通行証を見せて入って来るが、中には監視官の目を盗んでこっそり入ってくる人もいた。ベトナム人女性は国境間を何度も往復して物を運んでいる。一方、ベトナム人女性が運んでくる商品を待っている中国人もたくさんいる。ある中国人の婦人に話を聞いたところ、毎朝門の前に来てベトナム人が運んでくる果物を待っており、一回の重さによって報酬を支払っているという。多くても1回15元(約225円)くらいだそうだ。また、凴祥浦寨で果物の量り売りをしているベトナム人女性たちもたくさんいる。彼女たちは夜8時に通関の門が閉まるのでそれまでに商品を売り切りたいため、必死で売りさばこうとしている。

果物を売るベトナム人女性

凴祥の通関門の近くで果物を売るベトナム人女性。

さらに、ベトナムから仕入れた紅木を中国の工場で家具や櫛などに加工した日用品やベトナムコーヒー、薬等をベトナム人女性が店舗で売っている。私たちが休憩にコーヒーを飲んだお店の女性はホーチミン出身のベトナム人で、20年前にやってきて広東省茂名の男性と結婚し、長い間果物をベトナムから卸して広東や山東に売る商売をしていたが、半年前からここでベトナムの日用品を売る商売を始めたということだった。

もう1つの国境地点、東興では、橋を渡ると中国とベトナムの間を行き来することができる。朝8時に通関の門が開くとモンカイと東興の双方から多くの人が行き来を始める。モンカイから東興に来る方は行列ができている。他方で橋の下の川にはモンカイから物を載せた不法の船がやってきて管理官が見張っていた。付近の道端では多くの女性が露店を開いている。毎日露店を開いているという婦人に話を聞いてみた。彼女はハノイ出身で、10年前に不法に東興にやってきたが、後に現地の中国人男性と結婚した。ベトナム「三宝」(香水、薬草、牛角の櫛)を中心に売っており、仕入れは東興の卸市場で行っている。毎日ベトナムから東興に商売に来ている人はモンカイの人だけではなく、国境から遠い所に住んでいる人は、モンカイに部屋を借りて毎日国境を越えて商売に来ていることも教えてくれた。

露店を開いている女性

東興の国境地点。右上の橋を渡るとベトナム(モンカイ)側に出る。付近で女性が露店を開いている。

越境民族
広西チワン自治区とベトナム北部の間には、瑶族、京族、壮族、苗族等の越境民族が居住している。これらの少数民族が中越国境を越えて「国際結婚」(中国語では「辺境跨国婚姻」)が行われている。その多くがベトナム籍の少数民族の女性が中国籍の同民族の男性(近年は異民族間の婚姻も見られる)に嫁ぐケースで、中国側の男性の婚姻問題を解決する手段ともなっている。また、同民族の親戚関係を頼ってベトナムから出稼ぎに来る少数民族も多くいる。東興のベトナム料理(フォー)店で出会った瑶族の女性(1978年、クアンニン省先安県東五社帰順村出身)もその1人である。彼女は夫が賭け事に失敗して借金を背負ったので、3か月前からこの店へ出稼ぎに来て同行証(3か月)で滞在している。彼女と店主の妻の父親とは兄妹、つまり店主の妻は彼女の姪にあたる。店主(中国籍)と妻(ベトナム籍)は、店主がベトナムに商売取引に行ったときに知り合った。話せる言葉は、瑶族の言葉(中国側とは異なる)のみで、中国語や東興で話されている方言はできないが、ベトナムよりもここのほうが過ごしやすいと感じており、息子を呼び寄せたいという考えがあると話す。

まとめ
以上の考察から、人が容易に国境を行き来しているのを見て、「貿易」というのは本来単純な物の売買だと感じた。接触領域で様々な規制が設定されてはいるものの、個人が比較的自由に国境を越えてモノを運んでいるその光景は、「移民・難民」といったポストモダン的な概念では括れないような、より草の根レベルの普通の人の移動であった。とりわけ、ベトナム人女性が天秤で物を運んだり、中国人男性と結婚して商売を助けたりする姿が注目に値する。中国人男性(華僑華人)が商売を円滑に営むために現地の女性を妻に娶る習慣は、世界の伝統的な華僑社会で普遍的に見られた現象であるが、現代も同様の習慣が継続していることを物語っている。しかし現代のケースで異なるのは、男性だけが移住したり、中国と移住先国の双方で妻を娶取り形成された「両頭家」を行き来したりするのではなく、移動先の女性が積極的に国境を越えている点である。

このように国境を超える女性は、現代版の「水客」と言えるのではないだろうか。「水客」(「客頭」ともいう)とは、17世紀初頭から見られ、国内外を往来しながら、海外に居住する華僑華人が中国の故郷の家族や友人に宛てた金や手紙を送り届けた人をいう。初めて海外に出て行く人を連れて海外に居住する家族や友人を探すこと、中国の故郷の女性を連れて華僑華人の男性に紹介すること、海外で生まれた華裔を連れて故郷の親戚訪問に力を貸すこと等も「水客」の仕事であった[王2007:15-16]。つまり、国境間を行き来し、モノや人を運ぶ・つなぐ役割を担っていたのが「水客」であり、現代では女性が正にこの役の一部を担っているのである。

(注)本稿の基になった調査は、科学研究費基盤(B)「中越国境地域の市場から見た民族間交流とエスニシティの文化人類学的研究」(代表者:芹澤知広、平成26年度~28年度)により可能となった。中国側の中越国境地帯調査では、広西民族学院の呂俊彪先生に協力をいただいた。

【参考文献】
  • 王介南(1998)『中国与東南亜文化交流誌(第10典「中外文化交流」)』上海人民出版社。
  • トラン・ヴァン・トゥ(2013)「越中国境経済調査ノート」http://www.ide.go.jp
  • 浜下武志(1997)『朝貢システムと近代アジア』岩波書店。
  • 細川大輔(2014)「ベトナム-中国関係 ― 協調のなかの管理された対立 ―」『立命館国際地域研究』39:125-144。
  • 利国、徐紹麗(1989)『越南民族』華夏出版社。


地図:「二回廊一経済圏」(「両廊一圏」)の開発構想