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日中海洋協力エピソード(客員教授 東郷和彦)


5月1日 特任教授 東郷 和彦
はじめに
 最近の私の研究活動でちょっと面白い経験をしたので、以下に紹介したい。
 いうまでもないが、日本と中国は海によって隔てられている。この海は協力の対象とすれば豊かな実りを結ぶが、対立の根源とすれば多くの問題を引き起こす。
 最近ともすれば対立の海とならんとしている日中の間の海の問題を、何とかならないか、対立は直に解消できないのは重々承知でも、事態を悪化させない知恵を工夫し、協力できるところは協力できないかというような問題意識で、日中間の海洋協力に関する国際会議が北京にある中国社会科学院主催で行われた。
 中国社会科学院の中には様々な研究部局があるが、その一つに日本研究所がある。私は、2022年4月28日、古い友人である楊伯江所長から招待され、「東アジア国際関係における沖縄(琉球)」という国際シンポジウムにズーム参加をした。
 北京社会科学院では、この会合を成功と見た故か、同じ年の12月6日、「中日海洋関係と海洋共同体の構築」と題する国際シンポジウム開催の準備を始めた。ところがこの会合が、諸般の事情で遅れてしまい、結局今年2023年4月18日に開催され、私もまたその会議に招待された。

中日海洋関係と海洋共同体シンポジウムへの参加
 主催者の意向により、私は、このシンポジウムの第一議題である「中日海洋関係の歴史的変遷」の6名(日本人二人)のスピーカーの一人として、10分の発言時間を頂戴した。そこで、ちょうど中国が近世に向かって上り詰めていた明の時代に遡り、その時代に日中でいかに活気に満ちた海洋協力が行われていたかについて、概略以下のとおりのべた。

(1)「歴史的変遷」という以上思い切って歴史に遡ります。遡ってみてそれが実に現代の日中海洋関係を考えるための重要なヒントを与えていることに気づきました。
 中国については明(1368~1644)の時代に遡ります。そこで、この時代の日本の歴史を少しお話しせざるを得ません。
 日本の歴史は、大和の国、今でいう奈良・京都を中心にその主要部分が動き出します。遣隋使・遣唐使の時代ですね。
 統治の権限は、天皇とこれを支える公家、実際の現場を仕切る武士が加わり、統治のメカニズムが発展していったわけです。
 その統治の基本形態が、明の時代、まず、足利氏という武家の棟梁が力を持つ室町時代、その力が弱まった時に起きた約一世紀の戦国時代、これを織田信長・豊臣秀吉によって国が統一された安土桃山時代へ発展して、最終的には1600年の国を二つに割る関ケ原の戦い以降、徳川家康によって国が統一されていったわけです。
 さて日中はこの明の時代の約300年弱、環東シナ海・南シナ海ともいうべきアジアの海で実に興味深く活気のある交流をしていました。そこから3点申し上げたいと思います。

(2)第一は、この時代、日中両国は、海洋協力により、掛け値なしの巨額の利益をあげていたことです。
 日本ではこの近世成立期に鉱山の開発がすすみました。そこで、金銀銅などの貨幣素材を輸出し、海洋アジアから東洋の物産を輸入するという基本形が成立し、この需給が見事に均衡し、巨額の富になっていったわけです。
 しかしながら、この時代の成功の源は、そういう需給バランスの一致からだけではなく、その時代に運用されていたシステムへの適応という要因もありました。
 まずは、朝貢制度への効果的な適応という要因があります。具体的には、室町幕府の将軍足利義満の時から始まった「勘合貿易」であります。これは、明の永楽帝が認めた朝貢貿易の一つで、1404年から1547年まで143年の間に、18回、延べ50隻が日本から派遣されました。これが、双方に非常な利益をもたらしたわけです。
 
(3)第二は、明時代の海洋秩序が、明の文化、即ち中国の文化・思想の中で運営されていたということです。具体的には、それは華夷秩序です。「華夷」は「文明と野蛮」といいかえられます。
 つまり、「文明」の中心は中国にあり、その周辺に程度において差のある「野蛮」の世界がひろがっています。その中で身を治めて徳を積むことが文明の中心に立つという徳治主義が説かれます。「修身・斉家・治国・平天下」というわけです。
 もちろん明の徳治主義が直ちに、日本で受け継がれたわけではありません。戦国時代から最初に日本を統一した豊臣秀吉は、力による対決という戦国のロジックを元に、文禄・慶長の役により、朝鮮に攻め入りますが、目標は明と互角に闘い、これを打ち負かすことにありました。徳治主義は、この戦争に終始反対しこれに参加せず、その戦後処理を見事になしとげ最終的に日本を統一し、260年の平和を創った徳川家康にうけつがれたといってもよいでしょう。

(4)第三は、この時代の海洋貿易の中から浮上してきた武器貿易の問題、鉄砲の渡来の問題があります。鉄砲は1543年、種子島に漂流してきた中国船に乗っていたポルトガル人から日本に伝えられました。戦国時代のさなかにあった戦国大名は、大きな破壊力を持つこの武器に非常な関心を持ち、日本は短い期間で世界でも有数の鉄砲大国になりました。
 しかし、徳川家康は、鎖国により諸外国とは一定の距離をたもち必要な対外処理は外交を中心に行う、そのような日本では、武士階級の帯刀をゆるせばたり、鉄砲は基本的には必要なしとする、思い切った軍縮政策をとります。
 江戸幕府によるこの大軍縮政策は抵抗なく武士階級の中にしみ渡っていきます。そして260年の平和により日本は、開国時に日本を訪れた世界の旅行者をおどろかせる、豊かで美しい国になっていったのです。
貿易・徳治・平和、現代に通ずる貴重な指針ではないでしょうか。

おわりに
 さて、この話にはおちがある。日本との事務的連絡を一手に引き受けてやっていた日本研究所のT さん(女性)と私との間で若干の意思疎通の齟齬が生じ、会合二日前の16日朝に、ズームと通訳機能のチェックを特別に行うことになった。そこでTさんとしばらく雑談する機会があり、私から、「自分は決して明時代の研究者ではないが、この時代の環東シナ海、南シナ海の異様な活気に着眼し、それを全く新たな視点で分析したのが現在の静岡県知事・川勝平太氏であり、彼がその研究の成果として金字塔をなしたのが『文明の海洋史観』(1997年)である。多くの人の固定観念をやぶる名著なので、あなたもアマゾンで発注し、これを研究し、中国に紹介したら、きっとあなたの研究にも役立つと思う」と言った。ズームの向こうでTさんは並々ならない関心を示したようであった。
 さて、18日会合が無事に終わり、私も楊所長やTさんと礼状を書きあうなかで、Tさんから特に興味深い便りが届いた。Tさんは、自分がやってきた研究に今回特に強い刺激を受けたと書き、早速『文明の海洋史観』をネットで検索したところ、なんとすでに中国語に訳されていることがわかり、今それを手に入れるべく対処している」と書いてきたのである。
 『文明の海洋史観』は私の知る限りまだ外国語に訳されていない。版権の問題など私の知らないことがあるのかもしれないが、中国の研究者が、中国の国家建設に役に立つと直観してこの名著を訳し、今それが静かに中国で読まれているとしたら、これは何か大変心強く、心温まる話ではないだろうか。
                                                             (了)