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室田有と台湾(特任准教授 横井 香織)


8月9日 特任准教授 横井 香織
 室田有(たもつ)先生(以下敬称略)は、1938(昭和13)年から1960(昭和35)年まで、静岡英和女学院の校長を務めた人物である。1887(明治20)年の創立以来、カナダの女性宣教師が校長に就任していた静岡英和では、1937(昭和12)年頃から「校長ニ日本人ヲ任用スル事ハミッション年来ノ希望又目的ナリシニヨリ」、日本人校長の人選が進められた。室田が候補にのぼったのは、1938(昭和13)年4月のことで、「各方面ヨリノ推選ヲ受ケシガ異口同音室田氏ノ人物、閲歴、信仰ニツキ最良ナル推挙ヲ受ケ最適任者トシテ推選スル」ということになり、室田に決まったのである。

静岡英和女学院時代の室田有(静岡英和史料館蔵)

 室田有は、1881(明治14)年、神奈川県に生まれた。神奈川県師範学校、東京高等師範学校本科英語部を卒業し、宮崎県立都城中学校、京都市立盲唖学院長を歴任したのちの1911(明治44)年、台湾へ渡った。このときから帰国するまでの26年間、室田は台湾で過ごした。ここでは、台湾時代の室田について紹介したい。
 
 1911(明治44)年4月、室田は台湾総督府中学校に教諭として赴任した。当時の台湾の中学校は、小学校を卒業した日本人子弟のための学校で、室田は英語を担当していた。中学校の教諭を5年間務めたのち、陸軍通訳官に任命された。通訳官だけでなく、陸軍将校語学教授や台湾商工学校講師、救護員養成所講師を兼任し、多忙な日々を送った。
 
 1921(大正10)年6月、室田は台湾総督府高等商業学校(以下台北高商)教授に任命された。赴任した1921年は、台北高商の学生が3学年そろった年であり、ここから本格的な教育活動や事業が展開されていったことがわかっている。しかし当時の台北高商では、教官の半数近くが台湾総督府の職や他校の勤務を兼ねており、台北高商の基礎を固めたのは、室田をはじめとする専任の教官だった。

 室田が台北高商に赴任した1921(大正10)年とその翌年、台北高商の特色ある事業が始まった。その一つは、海外調査旅行である。室田は、1924(大正13)年と1927(大正16)年に海外調査旅行の引率をした。1924年は3年生14名とともに、約1か月をかけて福州、上海、青島、天津、北京、大連、旅順、撫順、奉天、京城、仁川、釜山をめぐった。1927年は、3年生2名と2年生4名を引率し、香港、蘭領東インド、シンガポール、広東、汕頭、厦門をめぐる2か月の大旅行となった。

 1921年、校友会が設置され、言論部、旅行部、剣道部、柔道部、野球部などの活動が始まった。室田は言論部(のちに文芸部)を担当し、学生の要望で機関誌『鵬翼』や「台北高商ヘラルド」という新聞を刊行した。戦後、室田は言論部の活動を回想し、学生が寄せた時事を論じる文章に対して警察から説明を求められ、部長として対応したことや、新聞発刊に当局から保証金を要求され、新聞型の雑誌として刊行し、保証金を免れたと述べている。
 台北高商時代の室田が最も関心を寄せていたのは、女子の高等教育についてであった。
 従来女子の教育は特殊の職業教育は別として主として良妻賢母を目標にしてきた。良妻賢母固より可なりである。女子の最も共通の天職が家庭にあるを以て見れば良妻賢母でなくてよい筈がない。併し乍らその従来良妻賢母の内容が極めて消極的であったかの嫌がある。(中略)之は高等女学校程度の学校に於ても今少しく改良の余地があると思はれるが現今の修業年限を以てしては余り多くを望む訳にもいかぬであらうし、又家庭の生活程度、生徒の学習能力の関係上現今の高等女学校を一足飛びに高めて、悉く高等専門学校程度のものとする事も出来ないであらう。そこで現在の高等女学校の上に更に高等の学校を女子の為に設けてやる必要が出て来るのである。

 室田はフランスやアメリカの事例を紹介しながら、「東洋に於て婦人が男子より低く見られ、不当の取扱を受けて居った」ことを指摘し、「時勢は進んだ。婦人と雖も常に家庭の奥深くに引込んでばかりはゐられない。女子も亦家庭生活以外に社会生活を営むべく余儀なくされて」いると主張した。また、台湾島内の状況に関して、
 本島の事情を顧みるに…今日では全島に11の高等女学校があり約3500の女子が高等普通教育を受けている。併し何れも修業年限4箇年程度のもので僅かに1箇年の補習科を置く学校があるに過ぎぬ。高等女学校の校数に於ては一躍非常の進歩を見たのは大いに女子が中等教育を受け得らるる機会を多く与へられたといふ点に於ては大いに慶賀に堪へぬ次第であるが、遺憾な事には、更に進んでより高き教育を受くる機会がまだ与へられていない事である。
と捉え、高等女学校の修業年限を5年に延長するのではなく、高等女学校の上に官立の女子高等教育機関を設置することを要求した。室田のこの発信に対する反響は、予想以上に大きかった。何よりも、室田自身が1930(昭和5)年5月、台北州立台北第二高等女学校の校長に就任したのである。

 室田は戦後、
女学校をやる事になった。その学校は台北市内で一番小さい学校で至って振わなかった。之を大きくして振う様にせねばならぬ使命を負わせられて奮闘した。定員400名を800名にする為に努力し、その為に校舎の増築やプールの建設等をやった。
と回想している。実際、1938(昭和13)年のデータでは、台北第二高女は、名門である第一高女と同じ17クラス、生徒数も867名(第一高女は906名)という規模に発展したことがわかる。
 
 一方、女子高等教育機関の創設に関しては、予算の都合で官立学校の設置とはならなかったが、台湾教育会が2年制の女子高等学院を開校した。室田はこれを官立にすればよいと考えていたようである。
 
 以上見てきたように、台湾時代の室田は、女子高等教育の必要性を説き、自ら女子教育の実践者となった。このような主張と行動が、日本人校長を選ぼうとしていた静岡英和女学院の理事の人々の目に留まったのであろう。室田は女子教育に身を投じることを決断し、台北第二高女で7年間と静岡英和女学院で22年間、約30年間を女子教育発展のために尽力したのである。


〈参考文献〉
静岡英和女学院80年史編纂委員会編『静岡英和女学院八十年史』静岡英和女学院、1971年
室田有「発刊を祝す」(英和女学院新聞部『英和新聞』第1号、1951年6月23日)
室田有「天に昇る龍の如く向上一路前進せよ」(英和女学院新聞部『英和新聞』第5号、1952年2月8日)
台湾総督府『台湾事情 昭和13年版』1938年
室田有「台湾に女子の高等教育機関を設置せよ」(『台湾時報』76号、1926年)
台北高等商業学校文芸部編『台北高等商業学校沿革』1930年
『台湾総督府高等商業学校一覧』『台北高等商業学校一覧』1925~1940年
台北高等商業学校言論部(文芸部)『鵬翼』1~9号、1922~1930年