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日本文化の授業を担当して思ったこと (特任助教 粟倉大輔)


11月22日 特任助教 粟倉大輔
 当グローバル地域センターでの業務のほかに、私は他大学でもいくつかの授業を担当している。そのなかのひとつに、日本文化を教える授業がある。この授業のスケジュールを作成するにあたり、最初は茶業史研究をしていることもあって、そのまま1年間日本茶をテーマに授業を行おうかとも考えた。しかしながら、極めて限定された内容となってしまうし(それはそれでありかもしれないけれども)、また私自身もお茶だけの話で1年間続けられるのかという不安もあり、最終的にお茶の話も入れることができる日本の食文化の歴史をテーマに授業を行うことにした。

 もとより、日本食や食文化をメインテーマとする授業を行うのは初めてであったので、専門書や関連する書籍・資料・ネットサイトなどを読んだり閲覧したりしつつ、授業準備を進めた。そもそも「食文化」という言葉の意味についても明確に意識していたわけではなかったが、「食文化とは、民族・集団・地域・時代などにおいて共有され、それが一定の様式として習慣化され、伝承されるほどに定着した食物摂取に関する生活様式」であり、またここに出てくる「食物摂取に関する生活様式」とは「食料の生産、流通から、これを調理・加工して配膳し、一定の作法で食するまでをその範囲に含んでいる」(江原絢子・石川尚子編著『新版 日本の食文化―「和食」の継承と食育―』アイ・ケイコーポレーション、2016年、13ページ)という江原絢子氏の上記の定義を踏まえて、日本食に関する歴史的な歩みや、米や日本酒、味噌、醤油、そして茶などの生産・流通・消費の動きや調理法など技術面のことなどを盛り込みながら授業を行った。

 日本食については、日本人にとっては身近な存在である一方で、そこで用いられる食材やその調理法、食べ方などのなかには、意外と知られていなかったり、よくわかっていなかったりすることも多い。私自身も、毎回の授業をこなしていくことを通じて改めて分かったこともある。また、履修生には海外からの留学生も混じっているが、彼ら・彼女らにとっても日本食は興味深い対象といえるだろう。実際に、授業後に履修生からは「初めて知った」、「興味がわいた」、「自分でも作ってみたい(食べてみたい)」などといった反応がよく見られた。

 ところで、この授業は、当然日本の事例を中心に取り上げなければならない。しかし、私は、できる限り海外の食文化のことも含めて話をしている。もちろん、時間のリミットや内容如何によってその濃淡はあるが、それでも海外の事情も入れ込むことで、比較することの大切さを履修者に学んでほしいと考えている。例えば、日本と海外では、この食材の食べ方や普及率で、なぜこのような違いや差が見られるのか、という観点から、日本以外の国の事情も学び、理解することで、日本の食文化への理解をより深めることになるのではと思う。

 日本文化の授業だから、日本のことだけ話していればいいじゃないか、と思う人もいるかもしれない。しかし、それはややもすると、自国文化への過剰な賛美、他国文化への軽視や無理解につながってしまわないだろうかという危惧を抱いている。杞憂に終わればそれに越したことはないが、この点に関して、以下のジョン・スチュアート・ミル(1806~73)の言葉は示唆に富むものである。

 「もしわれわれの意見や方法は修正されうるものだという考えから出発しなければ、われわれは決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないでしょう。外国人は自分たちとは違った考え方をすると思うだけで、なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは何なのかということを理解するのでなければ、われわれのうぬぼれは増長し、われわれの国民的虚栄心は自国の特異性の保持に向けられてしまうでしょう。」(J・S・ミル著、竹内一誠訳『大学教育について』〔岩波文庫〕、岩波書店、2011年、37~38ページ)

 私はミルの研究者ではないし、社会思想史を専攻してきたわけでもないが、この言葉の内容は、21世紀の現在でも十分通じるものであろう。自国の文化や歴史に誇りと愛着を持つことはとても大切だと思う。ただ、それが過剰になると、「うぬぼれ」と「国民的虚栄心」が頭の中を支配し、他国の文化・歴史について自分たちとは違っているから劣っている、理解する必要はない、学ぶべきところは何もない、という考えに行き着いてしまう可能性もあるのではないか。

 現代は、日本に限らず世界的にも、他者との共生、価値観の相互理解を目指す、すなわち多様性を受容することが広く求められている。食文化についても、世界各地のそれぞれの人種・民族の中で、それぞれのやり方で現代まで継承されてきたものがたくさんある。そうした違いを互いに認め、理解することを通じて、食文化研究も発展していくものと思われる。